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社会を変えるためのコラムvol.4「『生きづらさ』を超えて」

さて、最近の若い人たちには、自らのことを「コミュ障」だと称する人が増えています。これは2010年頃より、中高生を中心にSNSなどで用いられるようになった表現です。2007年の流行語大賞には「KY(空気が読めない)」がノミネートされていたので、その前年あたりから、「KY」な人が揶揄されるようになっていました。日本の代表的な企業などで組織されている経団連(一般社団法人日本経済団体連合会)の調査では、2004年より今日(2018年)に至るまで、企業が求める人材のトップは「コミュニケーション能力」です。

こうしたことをふまえると、どうも2000年代前後の時期より、コミュニケーションがうまくとれるのか否かが問題とされるような社会になったといえます。一般にバブル経済崩壊後の1990年代~2000年代の時期は、「失われた20年」といわれています。この間に終身雇用・年功序列を軸とした日本型雇用システムが崩れ、大企業でも倒産し、リストラがあたり前のように行われ、新規採用の抑制が続き(「就職超氷河期」といわれていました)、いまでは非正規雇用が全就業者の40%を占めるようになり、格差が拡大し、とりわけ2008年のリーマンショック以降、貧困の深刻化が社会問題として再認識されるような状況になりました。

こうした状況を通じて、日本の社会の構造やカタチが大きく変わり、それまでの規範が崩れてしまいました。社会規範がはっきりしていれば、どのように振る舞えばよいのかが明らかなので、「空気を読む」必要はありません。上司に「飲みに行こう」と誘われた場合、その誘いに応じるのが部下の務めであるという規範があれば、選択の余地はありません。しかし、そうした規範(=空気)がゆるんでしまうと、どのように振る舞うのかが個々人の判断に委ねられるようになります。そうすると、この例でいえば、上司の誘いに応じるか否かは、その部下の判断により「断る」という選択肢もあり得ることになります。しかし、上司からすれば、断られるような事態は、それまでの常識からするとあり得ないことなので、その人は上司から「おまえ空気を読めよ!」といった叱責を浴びせられたりすることになります。また、そうしたことが「ゆとり教育」(大幅に学習内容が削減された学習指導要領による教育を受けた世代で、小中学校において2002年度以降、高校では2003年度以降の世代が該当し、1987年4月2日~2004年4月1日生まれの人たちが「ゆとり教育」を受けたことになります)の弊害として指摘されたりするようにもなりました。

このように社会規範=空気がゆるんでしまったことで、逆説的にその場、その場で「空気」を読むことの必要性が高まり、空気を読んで場を盛り上げることができる人が「コミュ力」の高い人として評価されるような社会状況が生まれました。そして「空気が読めない(KY)」人が問題となるのですが、「KY」=「コミュ障」なのではなく、「コミュ障」の場合は単に空気が読めないのではなく、自らがそうした人間だと認識している人なのです。

2000年代以降、「(新型)うつ」と「発達障害」と診断される人も増えているのですが、こうした文脈でいえば、規範のゆるんだ社会に過剰に適応し、絶えず空気を読もうと他者への気遣いを怠らず、緊張を強いられてきた人が疲れてしまうと「(新型)うつ」になり、逆にそうした場に不適応の人が「発達障害」の診断を受けたりすることになるのですが、そうした人たちのなかには自称「コミュ障」の人も少なからず含まれているといえそうです。

ところで、先のバブル経済崩壊後の「就職超氷河期」(だいたい1993年~2005年頃の時期)に就職の時期を迎えた世代(だいたい1970年~1985年生まれの世代)を中心とした人たちは「ロスト・ジェネレーション」と言われたりします。いまの30歳代~40歳代半ばくらいまでの世代ですが、この世代の頭の人たちは、第二次ベビーブーマーである1971年~1974年生まれの「団塊ジュニア」世代と重なります。1学年約200万人(ちなみに2017年の出生数は約94万人と2年連続で100万人を割っており、2018年も同様)と人口が多い上に就職が困難な状況であったために、この世代から50歳代の人たちに非正規雇用が多く、しかもひきこもり状態の人も多くいると推察されています。

最近、よく取り上げられる「8050問題」は、80歳前後の親と独身で働いていない50歳前後の子どもが同居している状態を指すのですが、「7040問題」も多いなどと指摘されたりもします。このように親世代が介護が必要な状態になり、子ども世代がひきこもり状態であり、経済的に困窮していて、発達障害があるのかも…といった複合化した問題を抱えている人が増えているのです。また、高齢者虐待(2016年での在宅での高齢者虐待件数は、約16,000件)では、未婚の子どもが加害者になっているケースが最も多く、単一の課題だけではないということがうかがえます。

このように今日はとても生きにくい社会だといえます。こうしたことを反映してか、社会福祉では支援を必要としている人のことを「生きづらさ」を抱えている人と表現することが多くなっています。社会状況の変化のなかで、「コミュニケーション」がとりにくいという問題と、就職や経済的困窮といった問題などが重なり、社会的に孤立した状況のなかで個々人に「生きづらさ」としてのしかかってきているのです。

社会福祉では、貧困、児童、高齢、障害、母子というように社会福祉の各法によって対象を把握しています。しかし、今日では「障害者問題」とか「介護問題」、「貧困問題」というように、ある種のカテゴリーに集約して課題を把握することが難しくなっています。「障害者」であるためには、「障害」があるとの診断が必要ですし、各種の手帳の申請が必要になりますが、そうした手続きがなければ「障害者」ではなく、障害者を対象としたサービスを受けることはできません。

こうした問題は、従来の社会福祉の枠組みでは対応しきれない問題として生じてきています。そして、いま、このジャーナルを手にしている人を含めて、若い世代から高齢世代まで、その誰もが生活課題として「生きづらさ」に直面している、あるいは今後直面する可能性があります。

しかし、こうした生活課題は集合化しにくいという性格があります。「生きづらさ」の背景には非正規雇用者の増大とか、発達障害と診断される人の増加、自分を「コミュ障」だと認識する人の増大などがありますが、当人が「生きづらい」と認識していても、その原因や状況が多様なので、かつてのように“連帯”して力を合わせて共通の課題に挑むというような行動がとりにくくなっているのです。

それだけにこのように「個人」化された生活上の、あるいは人生における課題を、個々人やその家族の責任や努力の問題としてしまわずに、集合化し、「社会」的課題として、社会的に対応していけるような取り組みが必要だといえます。一人ひとりの人が、それぞれに“私” という観点から、他者と“私たち”を実感できるような豊かな関係をじっくりとつくっていくことが大切になります。この“私”が、この“私”であるためには、コミュニティ(家庭や職場、友人との関係など)に“所属”し、そこで“承認”されていることが不可欠です。

そのポイントは、閉じられた関係を他者へと開き、“私たち”の課題(=社会的課題)として、取り組んでいけるか否かというところにあります。   KCDラボ代表 松端克文