社会を変えるためのコラム VOL.3「”ストーリー”から”シーン”へ」
Jポップ(邦楽)の流行は、時代の変化の映し鏡のようになっています。たとえば1960年代から70年代は、かぐや姫の「神田川」(1973)や「赤ちょうちん」(1974)に代表されるように「四畳半フォーク」が流行りました。恋人同士だけの貧しい暮らし、体制への反抗、そして「安保闘争」の挫折、バンバンの「『いちご白書』をもう一度」(1975)も、そうした時代の空気をよく表しています。
80年代を象徴するのは、BOOWY (二つ目のOには斜線あり)でしょうか。 そこには、社会に反発することで確認できる自分らしさ、夢を見続ける自分とそれを見守る彼女(=母性)による承認といったモチーフがありました。この時期は「受験戦争」が社会問題となり、後半にはバブル景気があり、“反抗”すべき“社会”を意識することができた時代だともいえます。
しかし、90年代はバブルが弾け、終身雇用や年功序列を核とする日本型雇用システムが崩れ、管理教育が見直され、今日では批判の的となっている「ゆとり教育」に移行します。また男女雇用機会均等法のもと女性の社会進出が進み「絶対的母性」の喪失をもたらします。この時期に流行ったBʼZは、こうした厳しい状況のもと、“努力”することで得られる自分らしさ、勝ち続ける美学をリズミカルに唄っていました。
ところが90年代後半のMr. Childrenやスピッツになると、“反抗”や“努力”の側面が消え去り、不安定な世界での変わらないキミとボクとの二人の世界の“関係性”が唄われるようになります(阿部真大『地方にこもる若者たち』朝日新書2013)。
2000年代になると、スマップの「世界に一つだけの花」(2003)などもありますが、全体としてはリズムやノリ、そしてダンスが重視されるようになります。90年代から2000年代は「失われた20年」と称される時期であり、日本の平等神話が崩れて貧困が顕在化する時期でした。しかし、かつての60・70年代のような社会問題・政治問題(「政治の季節」)とはならずに、「生きづらさ」という個人化された課題として受け止められるようになります。「世界に一つだけの花」や、ゆずの「栄光の架橋」(2004)などは、苦悩する人たちの応援ソングの機能をはたしていたのかもしれません。また、現実と向き合うことを紛らわそうとする心情が、リズムやノリ、そしてダンス中心の楽曲を求めたのかもしれません。
さて、女性シンガーでは、ユーミンからドリカムへの変化が象徴的です。松任谷由実(ユーミン)はすでに1972年に荒井由美でデビューしていますが、80年代にヒット曲を連発します。ユーミンの曲は、女性を主人公とした女性の成長の“物語(ストーリー)”です(酒井順子『ユーミンの罪』講談社現代新書2013)。一方で1988年に結成したDREAMS COME TRUE(ドリカム)は、90年代の音楽シーンをリードしますが、その曲は「それってある」的な“シーン”の羅列で、そこにはユーミン的な“ストーリー”性はみられません(宮台真司『私たちはどこから来て、どこへ行くのか』幻冬舎2014)。90年代以降、非正規雇用が増大し、地方の衰退が加速し、非婚化が進み、単身世帯が増加し…というように社会のカタチの大きな変化のなかで、“ストーリー”(関係性の物語)から“シーン”(出来事の羅列)への変化が生じます。
私とは、「私に対する私の物語」です。私であることを確認する(“物語る”)ためには、それを聴いてくれる他者の存在が不可欠です。しかしコミュニティ(人の集合体・“私たち”を実感できる関係)が衰退してきたために、私を物語る機会そのものが枯渇しています。そしてそうした状況が、Jポップやインスタグラム(Instagram)などさまざまな流行にも影響しているのかもしれません。“物語”化しがたいが故に、刺激的な“シーン”を求め、そのことが物語化をさらに困難にしてしまう。「インスタ映え」する素敵な“シーン”をいくら集めても、“物語”にはなりません。物語るとは、ある筋のもとで、さまざまな出来事を解釈し、意味づけることで、相互に関連づけていくことです。物語化しにくい社会であるからこそ、自らの人生においても、そして支援の現場でも、物語ることを大切にすべきなのかもしれません。
KCDラボ代表 松端 克文